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25年前のスケッチ

訂正: 米国籍の選択年齢は21歳。うっかりしていました。
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ニューヨーク市の北郊外、ウエストチェスターと呼ばれるカウンティー(郡)は神奈川県のおよそ半分。山や川や海の自然に抱かれ、首都圏のベットタウンとしてハイウエイや公共交通機関の便もいい。

またアメリカの歴史を刻んだ史跡も多く、19世紀末から20世紀初頭にかけて開発された町や村の家屋が、今なお原型を残したまま、綺麗に改修され使われ続けている。


この郡北の外れのPCという港町もそんな昔の佇まいを残す美しい町だ。その町を通り過ぎるとき、不思議な光景を目にした。

夏が終わりを告げ、木々の落とす影も和らぎ始めた日曜の朝、知り合いからゴルフの誘いを受け、友達と一緒にコネチカットに早朝ゴルフに出かけた。


帰り道、コーヒーを買おうと高速道路を降りてその街に立ち寄ったときのこと。車窓に映るのは、広々とした緑の芝生が目に染みる、のどかな景色。アメリカン・フットボール競技場、テニスコート、教会、老人介護施設、公園などなど、見た目にも財政の豊かさを象徴する風景が展開する。


ほどなくして景色は住宅街に入り始める。白や薄グレーに彩(いろど)られたビクトリア様式、コロニアル様式など、“人形の家”のような家々が建ち並び、いかにも昔なつかしいニューイングランドの小さな港町という印象に変わってゆく。


その行く手、1キロほど先に、石造りの教会がY字路交差点の中央に建っていて、遠くからでもその尖塔が目に入る。教会の手前100メートルあたりだろうか、両側に人々がたむろしていた。

 

「なんだろうね、あの人だかり」友達が訊いてきた。「教会の参拝者か、結婚式かな」。日曜なら、このウエストチェスターでよく見かける光景だ。車は両側の人だかりを横目にゆっくり通り過ぎる。「へぇ~」とワタシ。「なるほど」友達も同調した。

「話に聞いたことがあるけど、この辺がそうとはね」

顔を左右に振って目にしたのはランドロマットと書かれた看板と、店内に並ぶ何十台もの洗濯機や乾燥機だった。


コインランドリーで洗濯待ちをしている人々が、表に出て立ち話をしている。男性も多く、そのほとんどがラテン系だ。「こんな閑静な住宅街に・・・」と友達。「この辺なら、地下室に洗濯機と乾燥機を備えたランドリー・ルームがあるはずなのにね」


閑静な住宅街の一棟がアパートとして貸し出され、ポツリポツリと軽い風邪のようにその輪が広がってゆく。外見は古きよき時代の住宅街。その実態は共同住宅に変容していく。この地区に限ったことでもなく、日本も、ヨーロッパも、同じ現象はどこでも起きうるのだろう。


大家は水道代節約も含めランドリールームを部屋として貸し出し、洗濯のニーズに応えてコインランドリー出店というシナリオだろう。

「逆に言えば、住宅街でコインランドリーの有無が、地域判断のバロメーターということかな」。「青春時代、安宿探したよね、風呂無しは当たり前でさ」。「だけど、排他的で閉鎖的な地区もありますよ、俺たち平民には高くて手が届かないけど」


「移民の国だよね。新聞に載ってたけど、ニューヨーク市内に暮らす人々は、4人に1人が外国生まれだって」

「ラテン系の人達って、生活力もたくましくて子沢山。ここで生まれた子はアメリカと親元の二重国籍が持てて、21歳でアメリカ国籍を選択をすれば、不法滞在の親も、晴れて永住権が取れるってわけ」

「エドワルドの長女、18才になったっていうから、あと3年でリーガル・エイリアン(合法移民)さでしょうね」


ちょっと疑問に思い、家に帰って確認すると、高速道路を下りて始まる美しい公園や運動施設の景色は、高級住宅街で知られる地区だった。コインランドリーの手前で、次の街に変わる。一世帯あたりの年収格差はは、2倍弱と書かれていた。


あるラジオ・トークショー・ホストがよく口にした、“Chain Migration”(移民連鎖)。

テキサス州南部エルパソのようにメキシコと国境を接し、テキサス州編入後、何十年にも渡る不法移民の流入と合法的な帰化により、8割近くがヒスパニック系の街もある。2050年ごろには、南部7州の主要な人種はラテン系になるだろうという予測も出ていた。


こうして、出生地主義のアメリカは、地域ごとに異なる表情を見せながら、新世界へ進んでゆく。


Dvořák: The Symphony No. 9 "From the New World"



# by tanatali3 | 2023-03-22 18:42 | 短編・エッセイ | Trackback | Comments(2)

Identity, Status, Roots

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日本、または日本人は、どのように米国から見られているのだろうか?

思うに、多民族国家のアメリカでは、概ねアジア人という枠組みが現在地かもしれません。

一例をあげると、NBC放送局に仲間由紀恵似の若いリポーターがいますが、日系3世、所属は“アジア部局”。太平洋戦争中、日本人のみが強いられた強制収容問題を、親族の視点からリポートしていました。

片や経済力の落ち込んだ日本の政治家は、外国での受け止められ方は、存在感無しというところか。むしろ韓国のほうがメディアや政府対応で優先されつつあります。

その昔、イギリス滞在中、ビザ・ステイタスは学生でしたが、その後、外国から就労許可申請の形をとったため、イギリスを一旦出国し、アイルランド経由でイギリスに再入国。就労許可が下りるまで、いわゆる蜜入国まがいの滞在を余儀なくされた期間がありました。

アイルランドの入国審査で、渡航目的を不審視され、30分ほど別室で質問されたものです。

皆さんは、こういうわずらわしさを経験されたことはないかもしれませんが、世界を流浪する人々は、いつも付きまとう問題なのです。

昔、品川入管で、台湾女性への高飛車な係官の物言いを垣間見たお袋が、「あんた、そんな言い方するもんじゃないわよ!」と脇から窓口へ抗議し、係官は黙っていましたが、同じ日本人でありながら、彼らは職業病に陥ってしまうのかと、残念におもったものです。

アメリカの入管も似たり寄ったり。

グリーンカード入りの財布をコソ泥に盗まれ、再発行申請のため、入管に出向いたときのこと。

部屋がなかなか見つからず、やっとたどり着き、入り口の受付嬢に、「ここですか?」と聞いたら、「・・・」無視されたのです。おもわず、「ファッ・・・」とワタシの声が漏れ聞こえたようで、ジロリとワタシを観るのです。「アハハ、日本語、日本語」とごまかしたのですが、面接ブースに赴くと、面接官はなんとその黒人女性。再発行の権限はわたしにある的な話し方をちらつかせたのでした。

あぁそう。ニューヨークマンハッタンのコソ泥の話し、この国への投資、25人の従業員、みんな路頭に迷わせたいなら、やればいい、あんたの権限で、とケツをまくったのでした。

その後だんまりを決めた係官、再発行の認可をくれて、ほっとしました。 若気の行ったり来たり、どうして突っ張っるかなぁ。(笑)

家族や親戚を観ていると、ルーツは大切にしつつ、アイデンティティー、スティタスは無頓着という感じでしょうか。

日本が世界に打って出るときの心構えとして、単一民族などのつまらない発想は捨て、アジア圏の一員という柔軟性や大らかさを持たなければ、益々日本は孤立するだろうと思う、今日この頃です。(少し大上段に構えました^^)

昔から、国境なんてなければどんなにいいだろう、とおもったものですが、現実はそういうわけにもいかず、とにかく戦争という争いが収まってほしいと願うばかりです。


Eric Clapton - Over the Rainbow



# by tanatali3 | 2023-03-20 09:11 | 身の上話 | Trackback | Comments(10)

露天商 身の上話 4

身の上話など、どうでもいいことなのですが、行掛り上、書き続けます。

ケネディー空港から車に乗り、LIE(高速道路)経由でマンハッタンに向かう。

途中、クイーンズ地区を抜け、マンハッタンの中心部へもぐり込むトンネル約2マイル手前、まさに5秒にも満たないCMのような、マンハッタン絵巻が目の前に登場する。

その景色は地上から天に向かいムクムクと立ち昇る入道雲のように摩天楼が唐突に現れ、無言のまま眼前に迫ってくる。これを観た人は、おそらく誰もが言葉を失うだろう。映画監督ならば、オープニング・シーに使いたいほどだ。

建設労働者が高層ビルの天辺で、鉄筋の上に座りくつろぐ写真や、港湾労働者の土台建設現場など、過去にどれほどの人力がこの街に投入されたことだろう。そう思うと、その姿に圧倒され、立ちすんでしまいそうになる。

ニューヨークの朝は早い。午前四時マンハッタンのイーストリヴァーにかかるクイーンズブリッジを、小さなトレーラーを引いた車が断続的に渡る。街角でコーヒーとベーグル、ドーナッツを売る屋台である。

ステンレス製のトレーラーはだいだいが畳一畳ぐらいの広さで、中にプロパンガスのコーヒー給湯器を備え、三段の細長いショーケース棚にベーグルやドーナッツを所狭しと並べるのである。屋根に換気扇を付け、中に人一人が立って動けるスペースがあるだけだ

1990年代初め、マンハッタン・ミッドタウン・ウエストサイドの10番街から11番街にかけて、かつては大きな倉庫街でした。皇室の方が住む超高層住宅などまだない時代の話です。

陽は高く、陽気もいいのだけれど、人の往来がない。その倉庫街の、とある古びたレンガ造りの建物の前に立ち止まる。扉は鉄製で会社名など一切無し。大きなシャッター脇のブザーを押す。「ブー」内側から自動ロック解除の音が聞こえて、中に入ると、倉庫手前に詰め込められたコーヒー屋台の数々が目に入る。

中に進むと、天井は見上げるほど高く、左手の壁に無造作にコンクリート板を突き刺した階段が上まで続いている。

「上がってこい!」の声が倉庫内に響く。手摺などなく、壁際を沿うように上がる。二階はドアの上から板が斜めに打ち付けられていて、3階と4階はドアが無く、剥き出しのコンクリートの床が薄暗い奥に続くのが見えた。五階への階段は木製で、磨り減った板がぎしぎしと音をたて、登りきった狭いバルコニーの踊り場の先に、ドアを背に立つ男がいた。その男はゆっくり後ろ手でドアを開き、顎をしゃくり中に入った。

部屋にはスチール製のデスクと黒のアームチェア、折りたたみ式の椅子が一つ、デスクには娘とおぼしき写真が飾ってある。屋根裏部屋をオフィスとして使っているらしかった。男は四十半ばの白人で、分厚い胸板の脇の下にホルスターをかけ、35口径のリボルバーが収まっている。

「営業許可証を見せてくれ」

といいながらデスクの後ろに廻って椅子に腰を下ろす。


「更新料金が上がってね。今回は二千五百ドルだ。」

ワタシはズボンのポケットから札束を出した。

「来週の火曜日に保健所の検査がある。場所は35丁目の十番街。朝の九時までにトレーラーを持ってきてくれ。注意事項はこれに書いてある」

当時、ニューヨーク市における飲食露店商の許可証は二種類あり、朝食のコーヒーとベーグル類やフルーツの非調理食品の販売許可証と、ホットドック、シシケバブ類の調理食品の販売許可証に分かれていた。その許可証はおそらく舗道にある新聞の売店と同じ、戦後、失業者救済策の一環で一定枠を地区ごとに割り振ったものらしい。しかしいつの世も利権に目ざとい人達がいる。二年に一回の更新時期になると、この手の人種が忙しくなる。

独立までの移行期、街角のコーヒートラック5台運営した時の話。

*ニューヨークの拳銃の携帯許可証は、退職警察官の私立探偵や特殊警備員などを除き、下りません。


Frank Sinatra - New York


# by tanatali3 | 2023-03-18 07:00 | 身の上話 | Trackback | Comments(4)

料理の鉄人 身の上話 3

料理の鉄人  身の上話 3_c0074164_16220716.png

カミさん自画自作のグリーティングカード


渡米後、アメリカを知るために、コーネル大学ホテルレストラン学科の夏期講習を2期受講しました。が、これと言った収穫もないまま、というより、積極的に学ぼうとせず、得ることも少なかったのだと反省しています。


当時の経済背景

レストランがアメリカで成功を収めたのは、それまで日本人が築いた礎(いしずえ)があってのお陰であり、決して自分たちだけの力ではないことを、これを書きながら痛感しています。


時は1980年代半ば、高度経済成長を遂げた日本は、プラザ合意による急激な円高ドル安が進み、国内の不動産は高騰し、バブルに突入します。

そして日本は米国債を支え、アメリカを買うまでになったぞという、驕(おご)りまで出始めていたのです。


和食の輸出

食は文化です。海外の日本食は、現地の駐在員や日本人向けにはじまり、経済発展と共にその後いろいろな業種業態で広がっていきます。そこでは、日本の食品生産加工業者、貿易商社、販売卸業者、レストランが密接に繋がり、ネットワークを広げていきました。


鉄板焼き(火鉢ステーキ)で名を馳せた、ベニハナのロッキー青木氏や、高級天ぷらを紹介した稲菊。カリフォルニアロールが米国で生まれ大衆化した半面、高級寿司店は我こそと米国に進出しました。レストラン日本の倉岡さんは、トラフグの直輸入にご尽力されたりしました。


そんな中、日本のグルメブームが各国のメディアに取り上げられるようになると、とりわけ神戸ビーフの美味しさが、世界の美食家に注目されたのでした。


当時、和牛は米国に輸出できず、その不公平を打開するべく、両国各省庁の許認可基準をすり合わせ、実施体制を確立し、各手続きを経て輸出開始にこぎつけたのです。

最初は2頭の生きた牛をシアトルまで空輸し、2日間のビザを取得し、検疫後、解体施設で各部位に分け、ワシントンDCに送りで認可を得るなど、色々と苦労があったのです。商社と協力し、その和牛を全米で最初に扱ったのが、私達の店だったのです。


ニューヨーク、マンハッタンは、世界に冠たる大都市として、とりわけトップエグゼキュティブや各界の著名人は、値段もさることながら、美味しさを求めます。


少々話が脱線しますが、アメリカにおけるステーキの位置づけを少し紹介しましょう。

“突然ステーキ”(仮名)という日本のチェーン店がアメリカに進出されたことがありました。

アメリカの常識から言うと、あり得ないことなのですが、その常識を打ち破ろうとした意気込みは買いたいとおもいます。


ステーキはアメリカの“トラディション”(伝統)ともいうべきメイン料理です。有名店を訪れると分かりますが、プレゼンテーションは至ってシンプル。前菜もそれほど凝っていません。ただし、眼に見えない部分、その良質な牛肉の仕入れ管理と、熟成期間、焼き加減、がその価値を決めるといっても過言ではないでしょう。店の重厚な造りとビジネス中心の客層が相まって、建国以来連綿と培われてきたレストランが米国のステーキ・ハウスなのです。

“突然ステーキ”は、そのコンセプトを反転させ、日本の懐石料理を、立ち食いさせるほどの違和感をアメリカ人に与えたのかもしれません。


この和牛の登場により、それまでの高級プライムビーフから一挙に注目度が高まり、その超高級和牛はアメリカにおいて新たな食材としてのステータスシンボルを獲得したのでした。

しかしながら、これもまた諸行無常。神戸牛や各和牛の精液の違法輸出により、アメリカ産の和牛誕生へと時は移っていきます。


バブル末期に登場したTV番組「料理の鉄人」。この番組は全米をはじめ各国の料理番組の新たなフォーマットになったのでした。






# by tanatali3 | 2023-03-15 17:14 | | Trackback | Comments(7)

Air Show 身の上話 2

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ユマには米国の海兵隊航空基地(MCAS)がある。民間Air Lineも乗り入れるユマ国際空港としても知られる。

親戚の子がこの海兵隊に勤務しており、始めてAirShow に出かけた。

カナダ人の冬季居住者が多いことから、外国人ゲートが長い列を作り、さながらアメリカに再入国の雰囲気だった。係は、ワタシのパスポートをみて、「おはようございます」といって、次のテーブルで指紋登録をして入場。


昔パイロットに憧れ、こちらでソロの練習をしはじめたころ、仕事に追われて、それどころではなくなった。

感じたのは、トム・クルーズ主演のマーベリックの映画(まだ観ていない)で使われたF-35という戦闘機は、自動車なら、スーパーカーだろうと思った。

また海兵隊に勤務する若者(30歳)の意識の高さにも驚いた。入隊時の筋肉任せから、適性を見ながら将来への実績を積ませる、それもハイテク関連のインセンティヴの与え方が、どこかの予算の比にならぬほど、軍産共同体と政治がらみで、よく組まれているらしく、資金の潤沢さが伺われる。


第二次大戦末期のP-51ムスタングとF-35の並列飛行のデモンストレーション、オスプレイの飛行などを見ていると、昔観た映画のシーンが甦り、気持ちがごちゃまぜになる。

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堀越二郎や宮崎駿のように純粋に空への憧れからくる、映像やモノ作りの気持ちは大切にしたいし、子供たちからその夢を奪いたくはないとおもう一方、戦争という世界戦略を見せつけられると、正直どうしようもない無力感を感じる。


昔をもう引きずらないが、戦争やテロを、心底嫌っている。理由は簡単だ。9.11が、平和な生活を踏みにじったから。加えて政治にも懐疑的にならざるを得ない。政治力学は人々の“安全や平和”を口実に、“金”というベクトルで動くからだ。

ま、この話はこのぐらいにして、昔話しに切り替えよう。



1980年代半ば、ニューヨークはマンハッタン・ミッドタウン五番街から少し通りを東に入った小さな公園奥の、レストラン。連日連夜盛況で一元のお客は入れない場所になった。


そこで手配差配に四苦八苦していたワタシだが、「死の商人」と呼ばれ、アメリカの裁判でイランコントラ事件、ロッキード事件、などにも登場するお客さんが居た。名前はアドナン・カショギ。5年前鬼籍に入られた。


この方は五番街を2ブロック南に下った、ギリシャの海運王オナシス所有のビルの上階に住み、ワンフロアーをぶち抜き室内プールを造って暮らしていた。毎回のように来店前に、セキュリティー・ガード2人が予約席の確認に来て、本人用とガード役のテーブルを決めてゆく。また故フィリピン大統領婦人とも仲が良く、よく店内で鉢合わせした。ダイアナ妃と事故死した方は甥にあたる。

目を細め、おっとり優しげに微笑みながら入店する。エピソードは色々ある。


このレストランは、日本の銀座のママでも対応に苦慮する程、政治家や投資家、トップエグゼキュティブ、またスピルバーグ監督を始め、プロデューサー、映画スター、ミュージョーシャン、トップアーティスト、各レコード会社社長、ニュースアンカーなどなど、角界からの来客に恵まれ、映画カサブランカさながら様相をていしていた。


というのはマーケッティングの観点から、単なる高級日本料理店とは、完全に差別化を図ったのが最大の理由だろう。その枠を超えたレストランを目指し、メニュー内容・構成比を欧米人にも受け入れやすい、それも小手先ではなく、本格的な和食として落とし込んだところにある。


この考え方はホスピタリティー精神に多少欠如する現地社長だったが、日本のオーナーとトコトン話し合い、まとめ上げた総合力は正直、ワタシも認めている。日本人よりむしろ欧米人に大いに受け入れられる結果を出した。

また時節がら、バブル前夜、ミシュランで全米1位に輝くピークを迎えたこともあった。ただニューヨークの栄枯盛衰のサイクルは早い。


アメリカに近い国の大統領をつとめ、アメリカに亡命同然で余生を華麗かつ優雅に謳歌する人や、トムハンクス主演の「ビッグ」という初期の映画に登場する本当の会社社長などなど、思いだすと、千夜一夜になりそうだ。

故人を偲ぶ、思い出話をボチボチ書ければとおもう。

McGuire Sisters - I'll BeSeeing You (1942)



# by tanatali3 | 2023-03-13 17:22 | | Trackback | Comments(8)