人気ブログランキング | 話題のタグを見る

「思い出すままに」

「思い出すままに」_c0074164_07411211.jpg


“読書は自分との対話”と云われますが、M氏の「思い出すままに」上下巻を読み返しながら、無意識のうちに対話をしていました。

(・・・Mさん、どうですか、そちらは? 戴いた本を読み返して、気がつきました。ニヤニヤされながら、まだ健在でご活躍されると思っていました、見誤りました。申し訳ありません。

ついでに下巻の徹さんと私との場面、ブロンクスじゃありません、ブロンクスビルです。

そうです、あの晩、マンハッタンのホテルからブロンクスを抜け、ウエストチェスターの店に着くころには、とっぷり日が暮れていました。勘違いされるのも無理ありません)

胃癌の摘出手術で残る胃は1/4。25年前でしたか。どの程度食べられるものか心配しましたが、「美味いね~」と普通に完食され、ほっとしました。

それよりなにより、北米最後の旅、帰国前のニューヨークで、お目にかかれて光栄です。

🔷

M氏の書かれた「自分史」を各章ごとに読み返し、それまで抱いていた人物像がいかに薄っぺらであったかを、再認識させられました。

特に総合商社入社後、まだ安かろう悪かろうの時代から、商社マンが如何に海外に乗り出し、高度経済成長を支えたのか、その過程における人生観の変化など、うなづきながら、興味深く読みました。

説教めいたこと、愚痴は一切なし、人の縁がもたらす人生模様を語られています。

僭越ながら、氏の伝えたかった思いをほんの少し、差しさわりの無い範囲で紹介できればとペンを執った次第です。経歴より、むしろ氏の視点や感情、人生観にまつわる話をお伝え出来ればと思います。

取りあえず氏の幼小年期をざっと。

1939年12月4日東京麻布生まれ、5人兄弟1男4女の真ん中。岐阜・長野と2度の疎開を経て横浜に定住。幼馴染の遊び仲間に赤木圭一郎。

小学校では送辞・答辞を務め、中高一貫校・栄光学園では、喧嘩腰の反抗的かつ背伸びした行動で度々注意される、が退学処分は免れる。

クラブ活動のバトミントンは高校3年時も継続、早稲田の法学部・商学部にストレートで合格。“ラッキー”と本人は云うが、それは照れ隠し。

青年期

商学部に入学した当時の新入生は約1000人、女性はたったの3人。半数以上が浪人組、中には親爺面したやつが数人、地方出身者が数多くいました。

中略・・・

2年目は市場調査研究会に入会し、調査レポートを取りまとめて提出し、対価を得て、会の財政状況は裕福でした。

調査票の作成や地方で面接による再調査、最終レポートの作成など面白く、一時熱中していました。

英語クラスの連中と「オールタンメンズ」を結成し、親父からは中高時代の仲間だけでなく、全国各地からの学生とも幅広く付き合うよう強く云われていました。

・・・中略・・・

入学金は親に出して貰いましたが、授業料や小遣いは自分で稼ごうと思い、封筒の宛名書きを皮切りに、家庭教師、陸送、アメリカ兵の遺体運び、日雇い労働者集め、ヤマト運輸の配送業務の元締め、ダンスパーティー開催などいろいろしました。

最も稼ぎになったのは鎌倉・横須賀の市議会議員選挙での学生アルバイトの元締め。衆議院選挙では藤山愛一郎氏の選挙で元締めをしていました。

横須賀の市会議員選挙で新人ながら最高点で当選した竹内清氏はその後、自民党の神奈川県連会長までに上り詰め、小泉純一郎元首相のバックにいると云われている人です。

早稲田での4年間、アルバイトや遊びばかりに明け暮れていたわけではなく、勉学にも励みました。一般教養課目は休講が多く、且つ点数の甘い教授を選択し、商法1・2、貿易論、貿易実務、商業経済、経済論、商業英語などの専門科目とは真面目に取り組みました。中高時代に遊びほうけていたため脳が空っぽになっていたらしく、自分でも驚くほど授業内容を吸収することが出来ました。

専門科目のほとんどは90点以上の「優」。

小学校担任の高辻先生から色紙に、「散る花を追う事無かれ、咲き出る花を待つべし」をもじって、「来るものは拒まず、去る者は追わず」を座右の銘としてきました。

就職活動

とにかく、夏休みには決めたかったので色々調べて商社に狙いを定め、三菱商事、三井物産、住友商事、丸紅、伊藤忠、日商岩井、大倉商事の7社を仲間と訪問しました。三菱商事からは、10月1日以降でなければ面接は行わない事、学校推薦の取得が条件となる事などを人事部で云われたので、そんな堅いことを云っていたら優秀な学生は他の会社に就職してしまいますよ!と捨て台詞を吐いて早々に退散しました。面接日は丸紅が最初で、住商、物産、大倉商事、伊藤忠の順でした。

丸紅の面接日は確か6月初めで、その日は蒸し暑かったので、Yシャツを袖まくりし、ベージュのスラックス、白のソックス、茶の靴といったいで立ちで面接会場に足を踏み入れた途端、アッと驚き、何だ、こいつら、と思わずつぶやいてしまいました。前日の面接の残りの慶応の学生は勿論の事、当日面接予定の早稲田の学生も一人残らず学生服を着ているではないですか。これはヤバイと思い、市場調査研究会の後輩に電話して、学ランを持って来るように頼みました。

俺の面接予定時刻は刻々と迫ってきましたが、後輩はなかなか現れず、ついに面接の時間が来てしまいました。俺は、服装で落とすなら落としやがれ、丸紅がダメでも他があるさと思い直し、度胸を据えることにしました。5人の重役連中から代わる代わる質問されましたが、難なく答え、時間も15分程度で終わりました。他社の面接には学ランで臨みました。幸い、この頃は景気が良く、求人難の時代でもあったので、受けた会社は全て受かり、各社から印鑑をもって入社手続きを早急に済ませるようにとの電報が次から次に届きました。

俺はなんら躊躇する事なく丸紅に入社する事を決め、人事部に行ったら、課長から「M君は面接の時に足を組んでいたよ。重役連中は君のふてぶてしさが気に入ったみたいだ」と云われてしまいました。更に、夏休みには当社でアルバイトをするようにと云うので、学生最後の夏休みを遊びたいから商社を選んだので勘弁してください、その代り冬休みにはバイトする事を約束しますと云って了解して貰いました。

入社後、日本高度経済成長の一翼を担ったエピソードの数々は、頁をめくる手が早まります。とはいいながらその功績にすがることなく、また時代の流れもあり、後半の人生を歩まれます。それまで構築された人間のネットワークの広さには、驚くばかりです。

規格に縛られないキャラクターの持ち主は、どのような生き方をしたのでしょう。

人生の総仕上げに自分史を上梓され、それまで滞在した北米各地を回られ、最終地のニューヨークに来られて2年後に旅立たれました。

M氏の知り合いがオースチンで健闘されており、次回はM氏を偲んで一緒に話ができればと思っています。その後にでも「思い出すままに」の後半を。




by tanatali3 | 2024-03-04 01:21 | | Trackback | Comments(5)
Commented by shisouan at 2024-03-04 11:39
今年の4月からまたNHKで新「プロジェクトX 挑戦者たち」を
放送するようです。
以前、夜のニュース番組で菅旧幹事長か、二階堂氏とかに
台本に無かった質問をして不興を買いヨーロッパに飛ばされた
有馬記者が戻ってきて司会をするようです。
Commented by kogotokoubei at 2024-03-04 13:25
まさに、敗戦後の日本復興を担った方ですね。
次回も、楽しみにしています。
Commented by tanatali3 at 2024-03-05 01:52
shisouanさん
>新「プロジェクトX 挑戦者たち」、知りませんでした
できれば、失敗であっても挑戦することの意義を伝えてほしいですね。
そういう意味で有馬記者の復帰なのでしょうか。エールを送りましょう。
Commented by tanatali3 at 2024-03-05 02:00
幸兵衛さん
読み返してM氏がそこまで頭脳明晰とは知らず、またそれを自慢するでもなく、時代の寵児として、社長の快刀として活躍した経緯も頷けました。
Commented by botanporsche at 2024-03-22 13:06
連コメシ失礼します。

>早稲田の法学部・商学部にストレートで合格
ぐうの音も出ません。
関西最大の四流K大学を卒業後、学部に関係ないボタン製造業へ・・
2年(個人)と6年半(曲がりなりにも会社)、2軒のボタン製造会社にお世話になり、30歳でとっとと退社。
そしてその年(1981年)直ぐに個人事業創業。
43年後の現在も辛うじてボタン屋を続けています。

頭が良くて、体が丈夫(上背もあって)だったら、貿易みたいなお仕事もしたかったような・・
ま、手先が若干器用なので、なるべくしてなったボタン製造業かも知れませんなぁ。
名前
URL
削除用パスワード
<< 共に白髪の・・・ NHK World” >>